Chapter 11

プライベートシーン
《Part.1》

ペルー人に道を教える

=ペルー通信11=

<カーニバルのなごり
〜「暑いので道行く人に水をかけてあげましょう」

 「岡田さん、今月は気をつけてくださいね。特に土曜・日曜は〜。」

「え、なんですか、それ。」

「ブラジルのサンバのカーニバルは知ってますよね。 

あれほど盛大ではないですが、ペルーにも真夏の踊りのカーニバルがあったんです。

 3日間踊り明かしたものです。 

その3日間は道を行く人に水をかけてあげるのです。

 なにしろ1年で1番暑い時期ですから〜。 

 いつのまにか3日間の踊りの習慣はなくなってしまいましたが、人に水をかける習慣だけはいまも残っているんです。 

人だけではありません。

 車にもかけられます。 

ですからこの時期、車も窓を閉めて走ります。 

こちらの車はエアコンをつけていませんから、1番暑いときに窓を閉めて走らなければならないんです。

水ならまだいいんですが、ときどき泥をなげられることがありますからね。」ペルーってほんとに面白い国です。

そういえば今日 Apartamento に帰る途中子供たちが機関銃タイプの水鉄砲で盛んに水を掛け合っていました。

 これもあの「楽しい」習慣の一部なのでしょう。

道の両側で掛け合っているので、その間を抜けるのはちょっとタイミングが要ります。

 暑い盛りといっても日陰に入れば暑くなくて、日本の夏から比べたらなんと過ごしやすいことかと”夏苦手”の私などはありがたく思うのですが〜。

この人たちが日本に住んだら、きっと毎日「ホース」で一日中道行く人に水をかけてあげることでしょう。

 なおこの習慣、一番最初はカーニバルの3日間だけだったのが、カーニバルが消えたあと、なぜか2月中毎日行われるようになり、さらに一段とエスカレートしてケガ人が続出するようになったので、以後は日曜日だけに限定するよう指導が行われているとの事。

 だとするとウィークデーは安心して歩けるか〜となるとそうではなく、現に私の足元に飛んできたのはまぎれもなくウィークデーでした。

 ですから冒頭の「今月は気をつけてくださいね。特に土曜・日曜は〜。」という注意になっているのです。

 と、以上が2週間前までの状況だったのですが、その後ついにわが身に「水掛け」がふりかかってきました。

 先日「会館」に行く途中の団地の通路を歩いていると、突然思いきりパシャッと足元で激しい音がします。

 見ると水が飛び散って、そのまわりに破れたゴム風船の破片が散らばっています。

咄嗟にはなんだかわからなかったのですが、ハタと思い出し、「 ア 、これだ 」と気がつきました。

 15階建てのその団地のかなり上の階からなのだと思います。

思いきり狙われたようです。

 ウィークデーの午前中ですから、夏休み中の小学生か中学生のしわざと考えられます。

 それにしても、あの勢いでもし頭などにぶつけられたら無事にはすまないのでは〜とちょっとこわくなります。

 その後、あちこち注意して見ていると、子供たちがバケツの水をかけようとおっかけっこをしていたり、私の Apartamento の敷地内でもゴム風船の水掛けや、機関銃の水鉄砲が横行しています。

 きょう、ふらっとでかけた街中では2階の屋根(こちらは雨が降らないので屋根は全部平面になっていて物干し場として利用している家が多いです)から下の道路を通る人にバケツで水を掛けている3人の姉弟を見かけました。

 私は道路の反対側を通っていて助かりましたが、それを見てしまったので、あとは歩道をさけて、道のまんなかを歩いて帰りました。

 あと20日間ぐらいが「水難」とのたたかいです。

以上が先週までのご報告。

きょう(2/18)ブラッとミラ・フローレスまででかけました。

 コンビ(ライトバンを改造して座席をつけ、乗合にした小型バス)に乗っている

と、ある停留所で急に乗客の悲鳴が〜。

 振り向くとペットボトルに水をつめた中1ぐらいの女の子4〜5人がコンビめがけて思いきり水を掛けてくるのです。

 客はあわてて窓を閉めようとするのですが、なにせ中古のバンをさらに改造したバスで窓も咄嗟には締まらない。

 赤ん坊を抱いた母親はたまらず席を立って前のほうに避難する始末。

さすがに運転手が大きな声で威嚇すると例のグループもややおとなしくなった。かと思いきや、次の瞬間出入り口のドアに手を掛けて外から開けようとしています。

中から客が開けさせまいと必死の攻防が〜。

 聞くところによると、2月最後の日曜日が一番アブナイとか。

そういえばきょうも通りで一度、私の目の前に水風船が投げつけられたし・・・。

 どうも来週は無事ではすまないような気がします。

ペルー生活事情を離れて、今回はちょっとだけ私のプライベートシーンにつきあってください。

これからもペルー事情の休みのときはプライベートシーンにさせていただくかもしれません。

今回はその第1回・・・ということで。

一人暮しには少し広めの、殺風景なApartamento にも馴れてやや余裕ができると、ちょっと変化をつけてみようと考えます。

以前ある展示場で一輪挿しを見つけて買ってきました。

これは日本にもあるごく普通のものですが、ペルーでは花を一輪飾るという発想はないのでそのような一輪挿しを手に入れる機会はめずらしく、たまたま衝動的に買ってしまったわけです。

これに花を挿してみようと思いますが、花屋では大きくて立派な花しか売っていません。

ここはひとつ、あまり良くない方のペルー人になろう〜と道端にいっぱい咲いている花を一輪失敬してきて挿しました。

リマの花と木と公園については別の機会に書こうと思いますが、ここは花が実に多くて、市の管理もよくされています。

花と一輪挿しでテーブルの上も少しかっこうがつきましたが、どうももうひとつ物足りません。

近くにインカのArtesania (民芸品)の店があったのを思い出して敷物を物色しにいきました。

小さなやつですが、色・デザインとも気に入ったのがあり買ってきて敷きました。

これが一輪挿しによく合ってわれながらセンスのよさに感心していました。

誰も見るわけではないですからどんなに自分を誉めても大丈夫です。

あ、そうそう一度だけ家主とシニョーラ坂口が家賃の受け渡しとその立会いで来たとき、

家主の夫人が“Que bonito ! (わあ、きれいor かわいい!)”といってくれましたが、ヨーロッパ系の彼女に一輪挿しの感覚が分かるわけではなく、たぶん男の一人暮しに部屋を貸して心配していたところ、一応部屋が片付いていたので安堵の気持ちがそう言わせたとしか考えられません。

こちらの花は雨のない気候に強いせいか長く咲き、1週間以上元気にしています。

そうなるとこちらも愛着がわき世話をしたくなります。毎朝開き窓の外の小さな棚に出して陽と風にあて、水をやるのが日課になります。

これが日課となり、単調な Apartamento 暮らしに色をそえることになりました。

ところがこの1輪挿しとインカの敷き物にハプニングが起こります。

林先生という方がいます。

以前、リマの日本人学校の教頭をしていた方ですが、ペルーが気に入り、日本に帰任してから時を経ず退職し、奥さんと二人でリマに戻り移り住んでしまいました。

すでにこちらで家を買ってあって、お二人とも教職経験がある上、音楽・習字などの多彩な才能を活かしてこちらで活躍していましたが、2年前奥さんがガンのため亡くなってしまいました。

そのあと多くの人の予想に反して林先生は日本に帰らず、こちらでコーラスの指導などをしながら一人で暮らしていました。

お年は60代の後半だと思います。 

先日、自宅で突然倒れ病院に担ぎ込まれました。

脳梗塞のようです。

身近に家族がいないこうしたケースではだいたい日本大使館が病院の手配をします。

Clinica Anglo Americana という病院に入院とのことです。

私自身は林先生と特に接触があるわけではありませんが、日系人協会のある“会館”、(正式には“日秘文化会館”)ではよく会い、挨拶だけはしていました。

お互い“日本から来ている一人暮しの男”という同じ境遇でなんとなく親近感みたいなものを感じてはいましたが〜。

人脈が太く、世話好きなシニョーラ坂口が早速電話してきて「これから見舞いに行きますが、いっしょに行きますか。」と。

 「もちろん行きます。」

電話の話では意識は大丈夫、そして話もできるとのことでひとまず安心し、こんなときさしあたり気持ちを少しでも落ち着かせ、なごませるには花だ、と思いましたが、花屋に行っているひまはないし、花瓶も買っていられない。

そこでとっさにわが自慢の一輪挿しを思い出し、とりあえず持っていくことにしました。

病室の様子など見て後日、ちゃんとした花と花瓶を買っていくまでの“つなぎ”です。

病室に入ると、運動機能はマヒ状態に近く、ベッドに起きあがるのも手伝ってもらう状態ですが、先生は思ったより元気で、少し話した後一輪挿しに気がついて「ああ、かわいい」とニッコリされました。

病院は北米系で病室も清潔ですが、なんといっても狭い病室ですし大きな花束を置くような場所もなく、この一輪挿しはその役割を果たしたようです。

入院中2回お見舞いに行き、そのつど新しい花に取りかえるときも「きれい」とか「かわいい」といっておられました。

その後、日本から娘さんが来られ、退院して自宅にもどられた2〜3日後、家に見舞いに行きました。

病院のときよりさらに元気に話されて随分いい様子です。

安心して話しながらも、まわりをそれとなく気をつけて見たのですが、一輪挿しと敷物はどうも見当たりません。

どうやら退院の際に病室にそのまま置いて来られたようです。

無理もない話です。

自分で動くのも不自由な状態での退院でごたごたしているときです

また、、病院の関係者にしても、わけのわからない小さなビンと切れ端のような布にしか見えない敷物はゴミ同然で、他のものといっしょに処分してしまっても当然です。

もともと最初の見舞いの帰り道、「病院の人たちはきっと『いったいこれなんだろう』というでしょうね。」とシニョーラと笑いながら話していたものです。

というわけで、一輪挿しとインカの敷物との再会はなりませんでした。

敷物を買った近所のArtesania に行ってみましたが同じデザインのものはなく、残っていたものはどれもいまひとつでした。

そのかわりに花瓶はインカのVaso (水差し)で一輪挿しにちょうどいいのが見つかり前のに劣らないくらい気に入っています。

あとは感じのいい敷物があれば・・・。

話は全然飛びます。

こちらでの私の仕事場は“会館”の3階の日本語教師室の一角にあります。

筆記具はいまのところ引出しの手前に入れていますが、やはりペン立てがほしいところです。

日本から持ってきたやつは自分の部屋で毎日使うし〜。

で、前から買うつもりでしたが、なかなか買えなかった。

というのは、せっかくペルーにいるので、どうせ買うならインカの民芸品を〜と思っていたからです。

近所のArtesania は種類が少なくて適当なのがないのです。

ここでふたつの話がひとつになります。

つまり、一輪挿し用のインカの敷物と、インカのペン立てがほしかったのです。

歩くと1時間ぐらいかかるのですが、インカ民芸の専門の小さな店が集まっている市場があります。

きょうその市場へ行ってきました。

店の数はおそらく200は超えるのではないでしょうか。(少し離れた3ヶ所を合わせて)

たぶん、日本からのツアー旅行だと、かかせないコースのひとつに入るでしょう。

とにかく、いろいろなものがあります。

ていねいに見ていたら半日では足りないでしょう。

小さいものは楽器を持ったインカの人の豆粒のような人形や小銭入れから、高いものは銀細工やアルパカの織物まで。

店の奥でインカの女性が葦でカゴを作っているところもあります。

ただ、いまはそのうちの一番大きな市場が改修のためか閉鎖されていて、きょうは100ぐらいしか店は見られませんでしたが。

それでも十分いろんなものを見てまわり、安くてキュートな、目的の敷物やペン立てが見つかりました。

ペン立てを買った店ではついでに財布などの小物も買い、合計で80ソーレスになりました。(1ソーレス=約30円)

もとの値段は90ソーレスでしたがそれぞれシニョリータがまけてくれたのです。

それでも支払うとき、はじめてここに連れてきてくれたシニョーラ坂口から聞いていた「ここで買うときは必ず値切ってみることです。」のコトバを思い出して

“75。(めちゃくちゃなカステジャーノでもいいと)Por favor. Pero Setenta y cinco ”といってみました。

シニョリータは“ No”と笑いながらもしばらく考えて“ setenta y ocho (78)。”

もう一押しできたかな〜と思いながら、でも品定めするときだいぶあれこれ面倒なことを言ったしこれくらいでいいか〜と、そこで手を打ちました。

敷物を買った店は、最初“17ソーレス”というので“前の店では10ソーレスだった(これも身振りを交えて)En esa tienda ,Diez”と言ったら機嫌の悪そうな顔をして“何枚買うか?”

私“Uno”(1枚)

さらに不機嫌そうなので私は当然商談不成立と思い、立ち去ろうとすると、敷物を渡してよこし“10でいい”と。

家に帰ってVaso に敷いてみるとこれまたピッタリのすぐれものだったので実にいい買い物だったことになります。

歩き疲れて市場のそばのセビチェリアで昼飯を食べることにしました。

お金がないので安い店しか入れないのです。

どこのセビチェリアでもそうですが、7〜8種類のメニューが店の前に無造作に書き出してあり、客はそれを見て好きなものを注文します。

どのメニューにもスープがついていることが多いです。

普通は6〜7ソーレスから12〜13ソーレスまでのあいだですが、場所によって安いところもあります。

いわゆる「場所柄」ということでしょうが、きょうの店も市場の周辺に小さな自動車修理屋などが続きごたごたした感じのところで、すべてのメニューが4ソーレスです。

昼時でもあったので客が多く、活気があります。

たぶん「4ソーレスの昼飯を食べてきました。」というとまわりの人たちから「大丈夫ですか。」ときかれるでしょう。

以前、まだJICAから青年の日本語教師が派遣されていた頃、やはりお金がない青年たちは安い屋台などで食事して、ときどき腸チフスになっていたということです。

でも、とにかく安いです。

そして、これが充実しているのです。

最初に“Jugo de manzana(リンゴのジュース)”が出てきます。

この店でしぼったのでしょう。

下のほう半分が一挙に濃くなっています。

さっぱりしてなかなかいけます。

続いて“前菜”です。

“Papa”(じゃがいものこと)をふかしたものと野菜に、ちょっと変わったソースがかかっています。

これはあまりなじみのない味?ですが、慣れるといいのかもしれません。

そのあと“Sopa de casa ”(自家製スープ)です。

スープ皿にたっぷり。

なんという名前かまだ覚えるに至りませんが、こちらではポピュラーなパスタ〜ぎょうざの皮を小さくしたようなもの〜にいろいろなものを混ぜて結構おいしいです。

そしてメインディッシュ。

どれを見ても分からなかったメニューの中で唯一“Churrasco”が目にとまり「シュラスコ」を予想して注文しました。

予想はあたり、皿いっぱいに“Arroz”(ごはん)・“Papa de frito ”(フレンチフライ)・レタスにシュラスコの肉の塊が乗っています。

実は注文してから「しまった」と思っていたのですが、その悪い予想がぴったりあたってしまいました。

シュラスコの肉が硬いのです。

だいいちフォークで切ることから仕事です。

やっと切って口にしても“食べる”のはもっと仕事です。

かんでもかんでも、カタチが変わらないといった調子です。

はじっこのほんのわずかをようやく飲みこんで、大部分は切ることもしないで残すことになります。

ここでは一般に食品が硬いこと、塩分が強いことが特徴です。

以前、知らずにスーパーで肉を買ってきて食べようとしてビックリしました。

「よくこんなに硬い肉を食べているな」というのが実感でした。

もともと肉が苦手な私はそれ以後牛豚肉はいっさい買っていませんでした。

たまに外食するときも魚中心でしたが、きょうは失敗です。

もっとも“Papa de frito ”はおいしくて全部たいらげましたが、それでお腹はいっぱいになりますから、“Arroz”と“Churrasco”はいずれにしてもわたしの許容量を超えていたことになります。

こちらの人は実によく食べます。

ここの普通のメニューを全部食べきることは私にはとうてい不可能です。

「量と硬さと塩分」これが最大の難敵です。

そして最後にデザートのバナナがでてきます。

これは普通のバナナの半分か1/3ぐらいの小さいやつですが、味と食感がぜんぜん違います。

普通のバナナより締まっていて味がシッカリしています。

どちらかというとパパイヤのような食感で「バナナは果物だったのだ」と認識しました。

以上でしめて4ソーレス。

今回は注文に失敗しましたが、隣を見たら魚料理を食べていました。

次はわたしも“Pescado ”(魚)と言ってみようと思います。

メニューの失敗も私にはいい経験〜と納得し、さらに少し足をのばしてショッピングセンターに行き、帰りはコンビ(ライトバンの後部を座席に改造した小型乗合バス)で帰りました。

コンビのこともいずれ報告しますが、安くて便利なのでこの頃ときどき利用します。

ただ、慣れないと行き先や止まるところがわからずとんでもないところで降ろされますので要注意ですが。

1.2ソーレス払ってコンビを降り歩いていると、ペルー人に欧米系の血が混じった年配の婦人が話しかけてきて道を尋ねられます。

        <>はカステジャーノはわからないですが状況で私が判断した内容です。

婦人<「この通りはハビエル・プラードですか。」>

私  「Si(そうです。)」

婦人<「マグダレーナに行きたいですが。」>

私 (日常の生活圏を出て行動するときいつも持ち歩いている地図を広げて)

   「Estamos aqui. (私たちはここにいる。)Es Magdalena.(マグダレーナはここ)」

婦人<「どれくらいかかりますか。」>

私  「Mas o menos treinta minutos.(だいたい30分)」

婦人<オー ノー !そんなに遠いの?のようなしぐさで笑いながら>

   「Muchas gracias.(どうもありがとう。)」

と感謝されました。

つまり私はペルー人に道を教えたのです。

私にとっては画期的なことです。 

“Muchas ” のついた“gracias ”をペルー人から言われたのも、買い物以外では初めてです。

いつも新しい場所に行くとき、道をききたい場面がしょっちゅうあります。

でも聞けません。

答えてもらってもカステジャーノがわからないからです。

しかたなく通りの名前を街角の表示で確認しては地図を広げて、見当をつけています。

このもどかしさは、慣れても同じです。

そのもどかしさをきょうは反対に解決してあげることができた!

スゴイ!

とはいえ、さきの私のカステジャーノを聞いたら、大阪YWCAで私にスペイン語を教えてくれたプロフェソール・ジョルディーはがっかりすることでしょう。

私の語学力ではきっといつまでたっても地図なしに行き先の説明はムリでしょう。

ひとつだけ自慢できることは、歩くことだけは得意で、尋ねられたマグダレーナも前に用事ででかけたときタクシーでなく歩いて行って、距離感や所要時間を知っていたのですぐに答えられたわけです。

これからもでかけるときかならず地図を持って行くことにします。

そしてだれか道を聞いてくれないかなあ。

ただし、私が歩いた範囲で・・・。



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